2011.01/19 [Wed]
小指の思い出 最終回
小指の思い出、最終回です。
この話は長いので、普段、人から訊ねられても
口頭で詳しくお話しする気力はなく、
このように一度アウトプットして書いてしまえば、
今後は「ブログ読んでね。」と言えばよいので
一つお仕事が終わったような気がしています。(←大げさ。。)
さて、指のリハビリは思ったより長く続きました。
小指がどんどん曲がってくるので常に伸ばしていられるような
専用の装具もいくつか作ってもらって、24時間装着していました。
他の指は大丈夫なはずなのですが、なかなか思うように動かせず、
お財布の中の小銭が上手に出せないとか
おつりを受け取る時に手からこぼれ落ちてしまうとか
シャープペンシルの芯を片手で出せないとか、、、。
思いもよらないところで小指が必要なんだなあと
感じさせられました。
小指があるから手のひらもギュッと握れるようで、
4本指では力は入らないのだということもわかりました。
毎日ほとんど変化することのない指のリハビリ生活。
ある日、従姉妹にぽつっと
「いつ治るのかなあ?」というと
「・・・どこで納得できるかということじゃない?」と言われ、
ハッとしたのです。
・・・元通りにはならないんだ。
周りの人は当に気づいていたことだったのでしょうが、
私はいつか治ると信じ込んでいたので、
ああ、そうか、、、とその言葉ではじめて目が覚めたのでした。
その後は一生この指とお付き合いしていくんだと思うと、
さらに意識を変換させる必要に迫られました。。
反則かもしれませんが、
私という存在は肉体ではなく魂なんだと思い込みました。
この肉体は入れ物でいつか時が来れば使えなくなる。
でもこの入れ物の中に入っている「わたし」という存在は
何かエネルギーの塊のようなもので、
肉体がなくなってもきっと存在するだろう。
ならば、この指にはこだわるまい。
そして「わたし」の魂の形やらエネルギーの雰囲気?を
思い浮かべ、私の実体はそちらだとしっかり納得できるまで
自己イメージを膨らませました。(ちょっと意味不明でしょうか???)
そうこうしていると、ある日小指がまっすぐに伸びたのです。
「あら?ものすごくまっすぐになったなあ。」と思って
喜んで先生に見せに行くと
「これ、まっすぐになり過ぎじゃ。また切れとる。」と
言われてしまいました。。。
はぁ。。。
この右手の腱はどうしても繋がりたくないらしい。。
今度は左腕の腱を抜いてきて同じ手術のやり直しをしようか?と
聞かれたのですが、もういいですと言って強制終了。
癒着しているので、根元からは何とか動きますし、
これ以上治療するのはやめました。
リハビリをやめて、1年たち2年たち、
普通どおり生活していくうちに自然に指が楽に動くようになっていき
今ではほぼ元と変わりのない生活ができるようになっています。
普通に動く。
普通の生活をするということがいかにすごいことか。
時間をかけてのリハビリよりもずっと効果が出ました。
自然に腕が動くこと、足が動くこと、朝になったら目覚めること
普通に息ができること、家族と一緒に暮らせること、お風呂に入れること
言いだしたらきりがないのですが、
それらがどれだけ有難いことかと。
綺麗事でなく、当たり前だと思っていることが
実はあたりまえではないのだと、心底感じましたので、
私は心からこの怪我をして良かったと思っています。
今もほんの少し不自由なままであることで
喉元過ぎれば熱さを忘れると言うこともなく
何かあった時にはいつでもこの原点に戻ることができます。
全てのことには意味があり
それは自分にとって都合の悪いことであったとしても
大きな目で見たときには必ず善い方への軌道修正として現れる。
そんな風に感じています。
サムシンググレートからの贈り物。
私の小指の思い出、これにて終了させていただきます。
長らく痛い話にお付き合いくださいまして、有難うございました。
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この話は長いので、普段、人から訊ねられても
口頭で詳しくお話しする気力はなく、
このように一度アウトプットして書いてしまえば、
今後は「ブログ読んでね。」と言えばよいので
一つお仕事が終わったような気がしています。(←大げさ。。)
さて、指のリハビリは思ったより長く続きました。
小指がどんどん曲がってくるので常に伸ばしていられるような
専用の装具もいくつか作ってもらって、24時間装着していました。
他の指は大丈夫なはずなのですが、なかなか思うように動かせず、
お財布の中の小銭が上手に出せないとか
おつりを受け取る時に手からこぼれ落ちてしまうとか
シャープペンシルの芯を片手で出せないとか、、、。
思いもよらないところで小指が必要なんだなあと
感じさせられました。
小指があるから手のひらもギュッと握れるようで、
4本指では力は入らないのだということもわかりました。
毎日ほとんど変化することのない指のリハビリ生活。
ある日、従姉妹にぽつっと
「いつ治るのかなあ?」というと
「・・・どこで納得できるかということじゃない?」と言われ、
ハッとしたのです。
・・・元通りにはならないんだ。
周りの人は当に気づいていたことだったのでしょうが、
私はいつか治ると信じ込んでいたので、
ああ、そうか、、、とその言葉ではじめて目が覚めたのでした。
その後は一生この指とお付き合いしていくんだと思うと、
さらに意識を変換させる必要に迫られました。。
反則かもしれませんが、
私という存在は肉体ではなく魂なんだと思い込みました。
この肉体は入れ物でいつか時が来れば使えなくなる。
でもこの入れ物の中に入っている「わたし」という存在は
何かエネルギーの塊のようなもので、
肉体がなくなってもきっと存在するだろう。
ならば、この指にはこだわるまい。
そして「わたし」の魂の形やらエネルギーの雰囲気?を
思い浮かべ、私の実体はそちらだとしっかり納得できるまで
自己イメージを膨らませました。(ちょっと意味不明でしょうか???)
そうこうしていると、ある日小指がまっすぐに伸びたのです。
「あら?ものすごくまっすぐになったなあ。」と思って
喜んで先生に見せに行くと
「これ、まっすぐになり過ぎじゃ。また切れとる。」と
言われてしまいました。。。
はぁ。。。
この右手の腱はどうしても繋がりたくないらしい。。
今度は左腕の腱を抜いてきて同じ手術のやり直しをしようか?と
聞かれたのですが、もういいですと言って強制終了。
癒着しているので、根元からは何とか動きますし、
これ以上治療するのはやめました。
リハビリをやめて、1年たち2年たち、
普通どおり生活していくうちに自然に指が楽に動くようになっていき
今ではほぼ元と変わりのない生活ができるようになっています。
普通に動く。
普通の生活をするということがいかにすごいことか。
時間をかけてのリハビリよりもずっと効果が出ました。
自然に腕が動くこと、足が動くこと、朝になったら目覚めること
普通に息ができること、家族と一緒に暮らせること、お風呂に入れること
言いだしたらきりがないのですが、
それらがどれだけ有難いことかと。
綺麗事でなく、当たり前だと思っていることが
実はあたりまえではないのだと、心底感じましたので、
私は心からこの怪我をして良かったと思っています。
今もほんの少し不自由なままであることで
喉元過ぎれば熱さを忘れると言うこともなく
何かあった時にはいつでもこの原点に戻ることができます。
全てのことには意味があり
それは自分にとって都合の悪いことであったとしても
大きな目で見たときには必ず善い方への軌道修正として現れる。
そんな風に感じています。
サムシンググレートからの贈り物。
私の小指の思い出、これにて終了させていただきます。
長らく痛い話にお付き合いくださいまして、有難うございました。
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涙、涙…
イタイ思い出として
実際に聞いてはいたけれど、
こうして文章になって、
改めてじっくりと読んでみると
さぞや…と思う部分も多くあり、
最終回で、つい不覚にも
涙をこぼしてしまいました。
「わたしという存在は肉体ではなく魂なんだ」
と思い込み、指へのこだわりを捨てたこと。
当たり前だと思っていたことが
当たり前でないのだと気づいたこと。
全てのことには意味があり、
俯瞰してみれば、よい方向へ導かれると
感謝したこと。
素晴らしいことです。
わたし自身は、ゆかりんのような
イタイ思い出ではないけれど、
別の体験から、以上のことを悟りました。
サムシンググレートからの贈り物は
ときには厳しい現実をつきつけてくるけれど
それを通りすぎた後に
未知の世界の扉を開けてくれる。
それらを体験できることが、
好奇心を満たし、
明日への原動力を与えてくれる。
生きていく力は、
そうやって湧いてくるのかなと思います。
すべては善きように
なるべくして進んでいく。
新しい扉をひとつひとつ開けていきながら
見た事もないものを見て、
今までにない人との関係性を築き、
味わったことのない体験をする…。
命の尽きる日まで、
ゆかりんの面白過ぎる人生を
友人として、そばで眺めていたいなと
思いました。